昭和43年03月23日 夜の御理解



 刀に物言わせると言った様な言葉がございます。いわゆる刀にかけてでもというのがありますね。当時の町人はそういうわけにはいかなかった。ですからとにかく商売で一儲けさせてもらう。そして例えば、金に物言わせたね。いじめられた侍に金を貸して、金で殿様でも何でも自由にした町人があった。金に物言わせたんですね。信心をさせて頂く者は、どう言う事にならなければいけんかと。これは信心に物言わせなきゃいけない。本当信心に物言わせる。
 ところが信心に物言わせずに、そのまあ口で物言おうとするところに間違いがある。それはその人のことを真剣に思うて、あなたほどしの信心をしておる人が、今そう言う様に信心を落としておったんじゃあ勿体無い。今の椛目の信心はこう言う様な信心だと、燃えるような信心を皆さんしておられる。どうか一つあなたもしっかりやって下さい、元気出して下さい、というとますます反対になってくる。心の中におまえ達は何を言いおるか。いわゆるその、心の中に肯定しとります。
 自己を肯定しないでの生き方といわれるその、肯定しておる。自分はもうこれで良かとこう思うておる。だからそれにいくら例えば物言うて聞かせてもですね、かえってそれがますます反対になってくる。いやむしろ意地になっていく。今日ちょっと私そんな事を感じましたんですけれども、こりゃあほんに例えその人のことを思うてからでも、言うちゃあならんなと言う事ですね。物言うちゃあならん。言わせるなら信心で物言わせにゃあいかんね。信心信心に物言わせにゃあいけん。
 信心の力を頂く徳を受けてね。信心その人のことを思うなら思うほど、私は深い一つの大きな愛情とでも申しましょうかね。その人の信心を本当に思うなら口で言わずに、やはり自分自身の今頂いておる信心に物言わせにゃあいかんね。これは私共でも昔非常にもういうならもう日月の信心をしておる時にですね。もう大祭とか例えば今日あたりの御霊様のお祭りなんかでもお参りしてこない人があると、もう私が一生懸命、はあ今日のようなお祭りには、あなたもう本当にここは感激の坩堝にかしました。
 そういう中にあんたが来んちゃあどうしたことですか。どうしとったってすか。忙しかけんってそげな事があるもんですかって言うと、相手がむくれてから、大変腹かいてから、悪く思われた例がいくらもございます。それこそ一生懸命思っておるんですけれどもですね。結局そういうそういう間はだめです。そう本当に思うなら思うほど信心に物言わせなければいけない。
 ですからそういう自分自身が熱烈な信心をしておる時にはですね、どうも人に強要しようとするですね。誰でも自分が一生懸命燃えておるときには、燃えてない人を見るとですね、もう本当に抱えてからでも、その自分の燃えておるものを移そうとする。これはいけない。ですからもう一つ信心を進めてですね、自分がそう燃えておると言う事が有り難いと言う事になってこなきゃあいけんです。
 自分方の家は人の真似できんような信心ができておると言う事が有り難いと思わにゃいかん。その有り難いと言う所にはですね、もう言わんで済むです。それにはそれに何か都合があることなのである。神様のご都合もあることなのである。自分が物言うて分からせる、なら、なるほどけれどもね。というのはこうやっぱり、お導きならお導きというか、友達同士でいうなら、どうねこの頃のあんたの信心はと。
 と言ってまあ肩を叩いて、そのその人の信心を激励するというか、いうな事もいいけれども、言うて聞かないならもう二度と言うちゃあならんね。そして自分の頂いておる信心に物言わせにゃいかん。物言うような信心とはその信心をもう一段超えた信心。いわゆる有り難い、自分自身が有り難い本当有り難い。この有り難いという物を人に伝えおったらこの有り難いという物が消えるような気がする。
 その有り難い物を自分の心の中にじっと抱えて、それが徳とも力ともならして頂くようなおかげを頂いて、そしてそれを祈るならばこの人がおかげを頂かん筈はないね。それが身近な人。であればあるほど言いたいね。卓を叩いて言いたい。けれどもその時にはまだ言う方がまだ本当な事じゃあないと私は悟らにゃいかんと思うですね。もっともっと自分自身が有り難い物を、そう言う事が信心に物言わせると言う事ではなかろうか。
   どうぞ。